記憶ということ
ベルクソンによれば、「記憶には二種類あり、ひとつは習慣的記憶、もうひとつは想起的記憶である」ということです。
習慣的記憶とは、「身体運動の反復、つまり繰り返し練習して身に付くものである。」これは受験生である限り、毎日やっていて当然だよね。
(受験生というのは客観的に高2生の1月からとか高3生とかの物理的立場を指すものではありません。大学受験を志して受験の準備を始めようと思った瞬間、高1生でも受験生になれるという、主観的なものです。)
高1生でも、毎日受験勉強に向かって英単語を覚える。数学の解法をカードにとって、忘れた頃に復習する。
あたりまえのことです。しかし、やっているつもりでもどんどん忘れていく。なかなか定着しない人は、ベルクソンのいうもうひとつの記憶のタイプ、想起的記憶を意識して下さい。
想起的記憶とは、「イメージ的全体としての世界を地平として過去の諸事実をたちあらわれさせる記憶である。」
少々難しい表現なので、ひとことで説明すると「思い出のように思い出す」ということです。
普通、思い出は記憶の中で潜在状態にあります。それがふとした何かのきっかけで、その断片が思い出され、そこから全体がたぐりよせられるといった感じです。
その何かのきっかけで呼び起こされる断片は過去の時点で、自分にとって特別なひっかかり(impact)があるからこそ、その出来事が思い出としてしまわれているのでしょう。
目の前にある対象を初めて学ぶとき、一度しっかりと自分なりに、あるいは自分らしく捉えておく。
するとなにかしら「ひっかかり」があるようです。
そうしないで、意識の芯がないような「うわすべりの状態」で対象物に対峙してしまうと、はじめから何もひっかかっていないので思い出しようがないですね。(好きな教科は覚えられるというのはこのような「ひっかかり」がたくさんできるので当然の結果なのです。)
しかし、何も「ひっかかり」は「好きだ」というプラスのものでなくてもいいのです。
マイナスのものでも、impactを持ってひっかかりさえすれば…
<化学の教科書のアボガドロの顔写真。私にとっては、マイナスの、しかも相当なインパクトでした。だからアボガドロ数は今でも時々、記憶の地平線に現れます。>
絶対にしてはならないことは、意識の芯を合わせずにスルーすることなのです。
つまり学ぶべき対象物に対峙したとき想起的記憶に結びつくように、何か自分らしい「ひっかかり」をつくっておき、そして、受験生として習慣的記憶を得られるように「繰り返し」やる。
この2つの方法を使って、”覚えること”を乗り越えていきましょう。