現行のセンターテストの代わり、「共通テスト」というものが導入されることになっている。国語(評論)と数学にのみ記述式が追加されるだけで全体にマークシートという形式はそれほど変わることはない。
しかし、新しく導入する際の大題目は「思考力」を問えるような問題とあり、質的な変化はあるのかもしれない。
「思考」ということをクローズアップしているのは、 AI 導入時代に生き抜く諸君には 、AI にはできないこと (AI は記憶することは当然、更にdeep learingという”学習する”こともできるようになっている)つまり,学習した上でそれを用いて「考える」ということを担う人材にならなくてはいけないという事だろう。

ところで「思考力」とはいったいどのようなことだろうか?
A 分析力
B 抽象力
C 比喩的比較力
D 問題提起力

などが挙げられるが、まず、これらについて考える以前の大前提の条件を考えてみよう。
それは、そもそも君たちの日常の中に「思考する」ための『すきまの時間』があるかということだ。
この”日常の中の空白時間”がなければ上記の A 、B、 C、 D を自ら行うことはできないのである。

ここで、比喩としてモーツァルトを土俵に乗せて考えてみる(私はクラシック音楽には不案内なので、あくまで比喩として)。
モーツァルトはヨーロッパ、市民革命前夜、つまり絶対王政の爛熟時代に
5歳の時から父親を指導者そしてプロデューサーとして王侯貴族のオーダーに応えつづけ、ピアノを弾き、また、数々の作曲をした。

1/f ゆらぎとは、自然界の”川のせせらぎ”とか”樹木の葉が風になるとかの音”に含まれ、人の心をリラックスさせる効果があると言われているものだ。
人が作った音としてはモーツァルトのそれが唯一、1/fゆらぎを持つらしい。
天才である。

しかし、その曲調は彼の「光響曲25番」に代表されるように、音の隙間がない。
明るい曲調のものはもちろん、たとえ短調や半音階を使った暗いイメージのものでも、主旋律以外に息を継ぐ暇もないほどにフリルのような様々な音に埋め尽くされている。(楽譜を見ても。)
まさに、当時の王侯貴族がサロン内でするおしゃべりの如くだ。

彼が音楽の天才であることに異論をなどなく、その音楽は古典派の真髄であることに間違いはないが、その時のモーツァルトに「音楽とは何か」の問題提起があったのだろうか…と思ってしまう。
5歳からずっと外からのオーダーに応え続け”音をつむぎ出す”ことだけで彼の脳はbusyだったのではなかろうか?
この疑問への答えは、「レクイエム」と聴いた時にわかるような気がする。
彼が病を得て、その直前に書いた8小節のみの音(「レクイエム」)にはあのフリルのようなものはない。
これを作った時には、病ゆえに「立ち止まる」時間を得、そして何かを「思考する」ことができたのではなかろうか。
だからこそ単に社交の場の BGM でない音楽、おかかえのアルチザンから、音楽とは何かを考えるアーティストへ、つまり、その後のベートーベン(音楽に作曲家のイメージが入り込む)へとつながっていくことができたのではないか、と。

A モーツァルトの生きた時代の分析
B 「音楽とは」の抽象化
C ベートーベンとの比較
D モーツァルトの音を通じて「すきまの時間」という問題提起


と一応仮説を立ててみた。このようなプロセスが「思考してみる」ということだ。

そこで君達の日常を顧みて欲しい。授業を受け、部活し、予習に追われ週末には試合と週末課題。その週の復習さえもままならぬまま。
そして、そのすき間の全てはスマホ画面で埋め尽くされているのでは?
そのような中で「思考する」ことなど出来ないだろう。
これからの君達は事柄の記憶の部分は AI に外化する世界で生きていく。
その時、人が担うのは「考える」力だ。

日常に『すきま』の時間をつくって、まず、ぼーっとしてみる。
窓越しに樹木が揺れている。その時、あそこで起こっている「光合成」というシステムをエネルギーに転換できないかなという妄想に近い問題提起(D)が湧いてくる。ここで「光合成」の要素を分析し(A)、エネルギーとはと抽象化もし
(B)、そして現行のエネルギーと比較する(C)ということをやってみる。
このようなことを繰り返しドリルすることで、「思考力」が身につくのである。
まず、『そのための時間』を確保せよ!