君は自前のエンジンを搭載しているだろうか?

「古典」といえば、大昔のものというイメージがあるかもしれないが、「古典」とは、時代や地域を越えて”価値あるもの”としてずっと残ってきた、あるいは残っていくものである。古代でなくとも「昭和」の書籍の中にも「古典」はある。和辻哲郎「風土」丸山真男「日本の思想」中根千枝「タテ社会の人間関係」小林秀雄「さまざまな意匠」梅棹忠夫「知的生産の技術」山崎正和「劇的なる日本人」池上嘉彦「記号論への招待」中村雄二郎「術語集」柄谷行人「意味という病」吉本隆明「共同幻想論」などは、大学生になると読んでおかなければならない名著ばかりだ。どれも大学入試に用いられたこともあるその著作物の中で、外山滋比古の「思考の整理学」は書くためのテーマ設定、そのための資料集め、データをいかに帰納するかといった「論文」を書くために読むべき必須の本だろう。(だから10年ほど前、本の帯に東大生、京大生が一番読んだ本としてリバイバルされた)大学生が読むべきはもちろんだが、高校生にも是非読んでもらいたいのは、その冒頭の章「グライダー」というところだ。新学期にふさわしい、パラダイムシフトできるかもしれない「刺激」がそこにはある。
グライダーと飛行機は遠くからみると、似ている。空を飛ぶのも同じで、グライダーが音もなく優雅に滑空しているさまは、飛行機よりもむしろ美しいくらいだ。ただ、悲しいかな、自力で飛ぶことができない。学校では、ひっぱられるままに、どこへでもついて行く従順さが尊重される。勝手に飛び上がったりするのは規則違反。たちまちチェックされる。やがてそれはグライダーらしくなって卒業する。グライダーとしては一流である学生が、卒業間際になって論文を書くことになる。これはこれまでの勉強といささか勝手が違う。何でも自由に自分の好きなことを書いてみよ、というのが論文である。グライダーは途方にくれる。突如としてこれまでとまるで違ったことを要求されても、できるわけがない。言われた通りのことをするのは得意だが、自分で考えてテーマをもてと言われるのは苦手である。長年のグライダー訓練ではいつもかならず曳いてくれるものがある。それになると、自力飛行の力を失ってしまうのかもしれない。人間には、グライダー能力と飛行機能力とがある。受動的に知識を得るのが前者、自分でものごとを発明・発見するのが後者である。両者はひとりの人間の中に同居している。

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