新テストが求めるものは”知識”から”知性”への転換”~今日の官僚のあり方からさぐる


奈良の東大寺、正倉院には聖武天皇の時代の様々な物のコレクションが収められているのは周知のところだ。
その正倉院の中には当時の官僚たちの残した文章が今でも残っている。
正倉院文章にその名を残す「安都雄足」という人物は、
下級官僚ながら748年から764年の間、多くの文章を確かに書き止めている。
公の文章を作り、残すこと、それが役人の仕事の一つである。

日本の官僚たちは、律令制度の時代から今日まで、
優秀なエリートの集団であり、古代の天皇制はもちろん、武士の時代になってもその仕組みは脈々と引き継がれてきた。
(江戸幕府の警察官僚は、少ない人数で、当時世界一の江戸という大都市を収めていく仕組みを作り出したことは今でも評価されている。)

ところがだ、
今年、官僚の中でもトップエリートの省庁と言われる財務省で”文章改ざん”という事態が明るみに出た。
前述したように、”公文書の作成、管理”は役人たちの主要な仕事である。
その古代から連綿と続いてきた”公文書の作成、管理”の意義自体が分からないというのは、もはやトップエリートとは言えないのではないだろうか?

1982年、東大卒業そして財務省入省という人々は当時”優秀”として
「82年組」ともてはやされたそうだ。果たしてその”優秀”さとは何だったのか?
東大合格は受験の秀才。
戦後の受験システムの中の”優秀”とは、まず、勉強する対象の範囲が明確に決まっていること。次に、現役合格がより良いとされること。
すると、当然のこととして、18歳までに”効率よく暗記できる”という能力の高さだけが評価されるということになる。(数学も解き方のパターンを覚えるのである。)
この”ものさし”での”優秀”は主に”記憶力”の良さに重点がおかれる。
東大をはじめとする旧帝大というのは、もともと明治時代に中央政府の官僚養成を目的に作られた大学なので、”前例主義”の役人仕事に対して”記憶力”が大切なことはわかる。しかし、近代化という時代を右肩上がりで突き進んでいた頃の日本と現在の日本とでは、日本人を取り巻く環境が違ってきているのではなかろうか?
効率の良い暗記は AI の方が優れているに決まっている。色々な事象を知識として暗記する。
例えば、平成26年某国立大付属中学の中学受験の社会に「本居宣長」を答える問題が出された。
『江戸時代の国学者、本居宣長』と覚えておけば試験は OK である。
しかし、それだけなのだ。
中学受験をする小学6年生に「本居宣長」の中身の何たるかなど分かるはずはない。一行の知識にすぎない。
この現象は、大学受験まで続く。
このように知識だけの人は、こんな風になってしまう。